文京区 西片について

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【西片】(にしかた)1~2丁目                昭和39年8月1日
 駒込村。「小石川柳町」は江戸時代から続く町。明治二年「駒込東片町」は江戸時代から駒込・
白山界隈唯一の商業地を形成していた駒込片町に徳性寺門前・九軒屋敷をあわせて起立し、同5年
大円寺と正念寺の寺地を併合した。この町の住人は元からの村人で、家康の手紙を運ぶことに従事
したことで立ち退きのときに僅かの土地を与えられて留まることを許された人々の子孫だ。明治5
年本郷菊坂田町は改称して「本郷田町」となった。また広大な福山藩阿部家上屋敷の内で上げ地さ
れ「阿部上地」と呼ばれていた区域を以て「丸山福山町」を起立。丸山はこの地の俗称。樋口一葉
が晩年を過ごし『にごりえ』『たけくらべ』を執筆して終焉した町として有名だ。一部が白山に組
み込まれた。同時に福山藩邸と周辺の武家地をあわせて「駒込西片町」とした。「森川町」は三河
岡崎藩邸・先手屋敷などの武家地を町域として起立、この辺りの俗称森川宿を以て町名とした。こ
の地は中仙道と日光例幣使街道(岩槻街道)の駒込追分で江戸防備のため旗本森川金右衛門氏信を
配し屋敷地を与え、本郷6丁目の木戸際から追分まての間に大繩地(官舎)を付与し、御先手組与
力6騎・同心50人を常駐させた。組子に森川の姓が多かったので宿場ではないが森川宿と俗称し
ていた。同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同44年「市制町村制改正」により
小石川・本郷の冠称外して柳町と田町・森川町とした。昭和22年文京区に所属、同39年新住居
表示により駒込西片町の全部に周辺の田町・丸山福山町・柳町・駒込東片町・森川町の各一部をあ
わせた町域を現行の「西片」とした。町名に西片を選択したのは面積が最大だったからだろう。町
域が屋敷町なので超は付かないが高級住宅地。


   更けて歩む西片町の横通り深山の如し月静かなる(佐々木信綱)

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 片町の由来
 通りの片側だけ町屋になってる片側町をいう。だから西片は阿部跡(1丁目8番)だ!

   菊坂の古井は今も葛の花(岡 孝子)

 この西片町は 福山藩阿部家中屋敷をはじめ武家士宅で、明治以降は上地収公されたためしばら
くは荒廃していたが、産業振興策もあって茶畑や桑畑への転用が見られた。阿部屋敷については明
治3年神田淡路町の上屋敷を収公されたため、西片の屋敷の1万坪を払い下げて貰いここを本邸と
した。そして大名商売で養蚕業を始め、空地は桑畑とした。同5年には今の誠之小学校の近くに養
蚕室を経営、同12年の横浜共進会でマユと生糸が入賞するほどで、この事業は昭和20年ころま
で続いた。同時に明治5年当時から貸家も扱い、のちには4000坪を分譲した。これが住宅地化
の最初で、戦後市街地化してしまう。
 


■駒込追分

 東京大学農学部正門前の三叉路のことだ。国道17号線が北へ本郷通りを分け、左に折れる街道が
旧中山道。本郷通りは、遠くは奥州道の一つ、江戸時代は岩槻街道・例幣使街道といい、将軍が日光
参拝の折通る御成街道でもあった。ここを起点にして、王子・岩淵・川口・鳩ヶ谷・岩槻を経て、幸
手で日光街道(奥州街道)に合流した。
 


■石坂
 西片1丁目3・8番と14番の間の大きく左に曲がった坂道。西片が、福山藩主阿部家の武家屋敷
だった時代より、中山道の出入り口から邸内を南北に縦断する主要道路(西御殿前通り)が通ってい
た。この坂道は当初その南端部に開かれていた切通しの急坂で、当時は石の階段が設置されていたの
で石坂と呼ばれ、坂上に物見楼、坂下に阿部家の表御門があった。明治5年には近隣の人々も通行で
きるようになったが、明治31年坂道のルートをより東方向へ曲げ、現在のようなS字状の広い坂道
に改造した(新・石坂)。その時、地面を削り取ったので、石段は撤去され、現在のなだらかな坂道
となった。新しい石坂を開く時に狐穴が2つ出てきたので、油揚げで誘い出して阿部邸の外庭の方へ
移って貰ったという話が伝わっている。現在の西片サニーハイツマンションを建てる時に、阿部正道
が゜元々の石坂の下り口を調査したところ、新発田育英舎裏まで続く石畳の坂の一部分が残っていた
そうだ。
樋口一葉は菊坂に住んでいたころ、急坂だった旧石坂を上って、現在の西片1丁目11にあった
師である半井桃水の寄宿先を訪ねている(桃水は、明治25年3月より従姉の夫である旧福山藩士の
河村家に寄宿していた)。


   
石坂
   町内より南の方、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ・・・
『新撰東京名所図会』
   この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)中屋敷、幕府の御徒組、御先手組の屋敷が
   あった。明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文化人が居住した、田口卯吉(経
   済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)
   上田敏(翻訳家・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎
   (倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。
   西片町の景
   交番の上にさしおぼう桜さきけり 子供らは遊ぶ おまわりさんと(佐佐木信綱)
               文京区教育委員会 昭和60年3月


 流石に、文の京(ふみのみやこ)文京区だ。しかし坂の途中、区の説明板が立っているところはポ
ケットパークになっていて、休憩所は嫌味なのかねぇ。坂が急なので途中で一休みしろってか? 
説明看板にべたべたとゴミ収集の貼り紙が貼ってあるのはどうってこったい。文教区だろうが。


■聖パウロ修道会西方修道院
 西片1丁目14番7号にあるキリスト教会。聖パウロ修道会はイタリアのローマに総本部を置くカ
トリックの修道会だ。大正3年にイタリア人アルベリオーネ神父によって、

   社会的コミュニケーションの手段を用いてキリストの言葉を総ての人々とに伝える

 ことを使命として創立されたとか。ここは敷地も広く建物も山小屋風でかなり年季が入っているが
落ち着いた感じのする建物だが、とてもキリスト教会とは思えない佇まいだ。で、どうしてここにあ
るんだ。玄関の門の電球の横の「聖パウロ修道会」と横書きされた表札に気づかなければ、通り過ぎ
てしまうだろう。住所で探してきて、ここにきても「教会は何処?」ってことになる。キリスト教徒
はやたらめったら秘密結社を作りたがるから、そんな組織かも!
 


妙光山興善寺
 西片1丁目15番6号にある日蓮宗の寺。

 興善寺会館
 文京区唯一の借り上げ式場。区民の方なら2日間90000で使用できる。駅から近いので大変利
便性が高い。
 


■樋口一葉文学碑・樋口一葉終焉の地

 西片1丁目17番8号にある一葉の最後の旧居跡だ。KSビルの壁の植込に碑と説明板が建ってい
る。一葉は、説明するまでもなく小説家・歌人として明治期に活躍した若き女性。本郷の井戸の側の
住居を離れた一葉は、当時の下谷区竜泉寺町に10か月住んだのち、明治27年にこの地に移った。
うなぎ屋の離れで、6畳2間と4畳半の3間、庭には崖の湧水で造られた池があったという。ここの
隣り合わせの銘酒屋の女性をモデルに、あの名作『にごりえ』が生まれた。また『大つごもり』『た
けくらべ』『ゆく雲』『十三夜』など代表作が数々生まれた。しかし一葉は結核のため24歳の若さ
で、その生涯を閉じた。碑面には「一葉樋口夏子碑」と上部に右横書きされ、その下に日記の一節が
2段に分けて縦に刻まれている。

   一葉 樋口夏子碑
   花ははやく咲て散がた はやかりけり あやにくに
   雨風のミつゞきたるに かぢ町の方上都合ならず
   からくして十五円持参 いよいよ転居の事定まる
   家は本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてさゝやかなる
   池の上にたてたるが有けり 守喜といひしうなぎやの
   はなれ座敷成しとて さのみふるくもあらず
   家賃は月三円也 たかけれどもこゝとさだむ
   店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも
   わづらハしく心うき事 多ければ得かゝぬ也
   五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ
   右、一葉女史の明治二七年四月二八日五月一日の日記より筆跡を写"して記念とす

 最後の「右」以下の文章は、建碑者註記だ。5月1日の前の文章が4月28日の日記だ。経済的な
事情もあったようだが、4月28日に引越し先を決め、その3日後の5月1日に引越しするという慌
ただしさだた。次は碑陰の文章だが、十分に読み取れないところもあるが、載せることとする。

   一葉樋口夏子、明治二十七年五月一日下谷竜泉寺町よりこの地本郷丸山福山町四番地に移
   る。この家に住みてより日数この創作ありしなかにも「たけくらべ」「にごりえ」「十三
   夜」などの傑作を(三字不名)。後、病をえて明治二十九年十一月二十三日この地に没す。
   時に齢僅に二十五歳なり。後、同家に作家森田草平氏らも住みたるが、同四十三年八月末
   の暴風雨の節、崩壊して今はなし。女史没してすでに五十年あまり、やうやくこの地の新
   しき歴史の中に埋没せんとするをおしみ、興陽社笹田誠一氏の篤志により、この地に碑を
   建つ。
   昭和二十七年八月上旬     世話人
                  岡田八千代 平塚雷鳥 幸田文 野田宇太郎 井形卓三
                  八千代 文  らいてう 書


 区の説明板は以下の通り。

   樋口一葉終焉之地                      西方1‐17‐8
   この文学碑は、昭和27年9月7日に建てられた。日記以外の表面の文字と裏面の文字は、
   平塚らいてうの書。裏面には、岡田八千代の撰文による一葉の業績の概要と興陽社社長笹
   田誠一氏の篤志によってこの碑が建てられことが記されている。昭和27年8月上旬、世
   話人岡田八千代、平塚らいてう、幸田文、野田宇太郎 (日記文選定) 、井形卓三 (文京区
   長) とある。
   昭和48年3月                         文京区教育委員会

 新しい説明板。


   樋口一葉終焉の地
   一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年東京府内幸町(現千代田区内幸町)
   に生まれ、明治29年この地で、24年の短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年を数え
   る。
   明治9年4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ご
   した。一葉はこの家を懐かしみ〝桜木の宿〟と呼んだ。
   父の死後戸主になった一葉は、明治23年9月本郷菊坂町(現本郷4丁目31・32番)
   に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期
   であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。
   終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年5月のことである。守喜(もりき)
   という鰻屋の離れで、家は6畳と4畳半1間、庭には3坪ほどの池があった。
 この時期
   「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、
   〝奇跡の二年〟と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での
   生活を偲ぶことができる。
   平成14年3月               
-郷土愛をはぐくむ文化財- 文京区教育委員会
 新しい説明板は上部斜面に上記の説明文を載せ、下部直立面に「一葉樋口夏子の碑」の碑文と、古
い説明板の説明文を記している、なお、一葉の墓は、杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。
 


■椎木稲荷

 西片1丁目19番11号の東の角地、新坂(福山坂)下にある小祠。
 


■丸山福山児童遊園

 西方1丁目20番5号にある区立公園。昭和24年4月1日開園。


■新坂
(福山坂)

 西片1丁目と2丁目の間の坂道。椎木稲荷の四辻を東へS字に上がって行く。

   
新坂(福山坂)
   『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あ
   り、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷に通じる、新し
   く開かれた坂ということで、この名がつけられた。また、福山藩ににちなんで、福山坂と
   もいわれた。新坂と呼ばれる坂は区内に六つある。
   坂の上一帯は学者町といわれ、夏目漱石をはじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、
   旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。
               文京区教育委員会 昭和63年3月
 


■清水坂・空橋

 西片2丁目1番と本郷6丁目20番を結ぶ陸橋。空橋は陸橋の意。西片町と森川町にかけられた陸
橋で、かつては清水が流れていたので「清水に架かる橋」ということで「清水橋」と呼ばれるように
なった。樋口一葉は、18歳で戸主となり、母と妹の2人を養って行くことになった。一家を支えて
いくために作家になることを決意した。その日は萩の舎は休み、前夜は徹夜であったが、上野の図書
館で源氏物語などの古典を勉強した。明治24年8月8日の日記に入相の鐘にあわてて根津を回って
帰る。

   空橋のした過る程、若き男の、書生などにやあらん、打むれて、をばしば(らんかん)に
   依りかかりてみおろし居たるが、何事にかあらんひそやかにいひて、笑ひなどす。しらず
   がほして猶いそぎにいそげば、ひとしく手を打なして、ぼうざくにも、『こちむき給へ』
   などいふ。何の心にていふにや、書のかたはしをもよむ人のしわざかとおもへば、あやし
   くも成りぬ


 とある。書生は第一高等学校生であろうか。男と女は昔も今も変わらねえなぁ!

   清水坂
   江戸時代、この辺りに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦三年(16
   57)江戸の町の大半を焼きすくす大火が起こり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
   この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉
   永六年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正
   という旗本屋敷がある。明治になって、その視木々は清水精機会社の所有となった。
   大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会
   社が一部土地を待ちに提供し、坂道を整備した。
   そこで、町の人たちが、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石
   柱を建てた。
               文京区教育委員会 平成14年3月


■西片公園

 西片2丁目3番1号にある区立公園。昭和24年4月1日都立公園として開園。平成3年4月1日
文京区に移管され区立公園となる。

 大椎樹の碑
 園内にある石碑。阿部屋敷のシンボルとしてあったシイの木。昭和23年まであったが枯死したた
め伐採撤去された。現在地元の人々手により新しいシイの木が植えられている。

   
大椎樹

   東京都文京区西片2‐3   設立昭和24年4月1日
   どんな地域でも公園は必ずありますね。文京区も区内にはたくさんの公園があり、遊具や
   緑、季節の花がたくさんあり地元の子供たちに親しまれております。そんな公園にも文京
   区ならではの歴史ある公園の一つが「西片公園」と「大椎樹」です。


 子供への説明板。

   みなさんは、この大きな石のおもてに書いてある字が読めますか。これは、「大椎樹(お
   おしいのき)」とよみます。むかしこの石のうしろには、四百年もいきていたといわれる
   写真のような大きなシイの木がありました。(この石の近くにある、大きな木もシイの木
   です)。


 ※写真省略。
 


■日本銀行誠之寮
 西片2丁目4番3号にある。詳細は極秘。まかり間違っても調査してはいけないよ。手が後ろに回
ることになる。触らぬ神に祟りなしってね。


■曙坂

 西片2丁目7番と14番の間の狭くて急な雁木坂(階段)。西片と白山を結ぶショートカットであ
り、古くから人々の生活や通学に使われてきた。両側の壁はそれぞれブロック塀と石垣になっており
対比の妙がある。周辺には木々が多く、季節ごとに独特の雰囲気を醸し出す。住宅街の中のとても閑
静な坂道だ。坂下に「曙坂」の石碑が建ててある。

   
曙坂
   『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪といわれるところ
   であった。明治2年に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同
   じ)を取り町名とした。この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮
   で、縁起の良い名称を坂名としたのであ ろう。
   この坂は西片と白山を結び、人びとの通学や生活に利用されてきた。昭和22年には旧丸
   山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。
               文京区教育委員会 平成13年3月
 


■日本吟道会館

 西片2丁目12番23号にある公益財団法人。吟道学院は故渡辺龍神(渡辺彰平)の主導により、
意を同じくする吟道家団体の指導者107名によって昭和55年7月1日に設立され、同59年11
月、文部大臣認可の社団法人となった。日本吟道会館をおき、吟道の普及振興に努めている全国組織
の公益団体。直接指導するのは、全国各地で活躍中の各支部(認可団体)の師範だ。
 台東区根岸3‐3‐4に木村岳風系の吟道会館(岳風会館)がある。


   吟道精神
   朗吟は、邪穢を蕩滌して飽満を斟酌し、血脈を動盪して精神を流通し、其の中和の徳養っ
   て気質の偏を救うものなり。吟道は気を養うの道なり。人の生や気なり。
   気竭くれば死す。気は以て養わざるべからず。正風六合に冾く一声士気高し。
   吟じ終りて清風起る。一吟天地の心。
    


■誠之小学校

 西片2丁目14番6号にある区立校。明治8年本郷区駒込片町10番地(現在地)第14代福山藩
主阿部正桓の所有地(旧藩邸の一部)に「第四中学区第十三番公立小学誠之学校」として開校。同1
3年裁縫室・事務室増築。同15年教室・便所増築。同17年100坪を校地として借り、2教室増
築。同19年小学校令により「東京府本郷区公立誠之尋常小学校」と改称し高等科(4学年)を併置。
尋常科は修業年限4年の義務教育となる。同23年校舎改築。同32年校歌制定(作詞・中村秋香 
作曲・小出雷吉)。同41年小学校令の一部改正により義務年限が6年となり「東京市誠之尋常小学
校」と改称。大正5年山本五十六(当時海軍少佐旧姓高野 大正4年長岡藩家老山本家の家名を相続)
来校講話。同9年児童2400名。同10年1年生4学級2学級づつ二部授業。同13年鉄筋コンク
リート造り校舎(第二校舎)落成。同14年創立50周年記念式典。昭和2年千葉県鴨川に学校独自
の夏季臨海団(3週間)。同5年市村錦吾訓導(教諭)水泳指導中殉職。同12年創立60周年記念
事業として始まったプールと水洗式便所完成。同16年国民学校令により「東京市誠之国民学校」と
改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都誠之国民学校」と改称。同19年4月給食
開始。8月栃木県小川町・下江川村・荒川村に学童集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家ア
メリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざ
るをえない今日的不幸を背負い込む。もう100兆円以上貢いだ。10月疎開解除により学童帰校。
同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都文京区立誠之小学校」と改称。同23年アメ
リカの強制により、それまでの父兄会を廃し、PTA設立。同24年ユニセフ給食校。同30年創立
80周年記念事業として「誠之図書館」落成。当時都内最高の1万冊の蔵書を誇った。同31年横山
大観から「富嶽」の図、横山大玄から「洋蘭」の図が寄贈される。同34年鉄筋コンクリート造り第
三校舎落成。同36年鉄筋コンクリート造り第一校舎落成。同38年体育館完成。10月50年振り
に校庭で運動会を催行。同42年プールに浄化装置設置。同45年給食調理室改修。校庭改修舗装。
同47年プールに加温装置設置。同50年創立100周年式典。同54年図書館改修。同55年誠之
史料館開館。同56年正門改修工事。
 以後の沿革の資料無く詳細不明。

 
校名の由来

 出典は孟子の『中庸』の中の1句、

   誠者天之道也。誠之者人之道也(誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり)

 で、伝統的な解釈によると、

   天道とは誠を本質とし、聖人は誠を体得しているが、普通の人間は善を選んで誠になろう
   と努めなければならない


 という意味で、漢文ではこれを略して「誠之」とする。この「誠之」の名は、幕末、現在の西片一
帯に中屋敷を与えられていた福山藩主の阿部正弘が、文武講習の目的で開設した藩校に対して用いた
ものだった。福山藩の「誠之館」には、江戸丸山誠之館と領地福山の誠之館の東西2校があった。江
戸の藩校はペリー来航の嘉永七年(1854)春、福山校は翌安政2年正月に開校した。しかしこの
「誠之館」は廃藩置県とともに閉校となった。
 開校に当って新築校舎及び備品一式200円を阿部家が負担、受取人は戸長小野寺正方、受取証の
日付は明治8年10月27日だ、校舎だけでなく、阿部邸北端の学校用地367坪も50年間無地代
で提供された。当時の校舎は、平屋で5教室・職員室・主事室・便所の延93坪だった。当時の入学
者が96名
と記録されており、現在から見ると十分にゆとりある校舎であったことが想像される。学
制の下に誕生した公立学校の多くが、その所在地名を学校名としたのに対して、十三番公立小学校が
特に「誠之」名を選んだのは、この物心両面に亘る阿部家の徳義に応える意味が込められている。藩
校「誠之館」は閉じたが、阿部家の育英の志は誠之学校に受け継がれ新時代に生かされていった。老
中阿部家中屋敷は、明暦大火「振袖火事」の火元だから遠慮があったんだろう。阿部家は他に敷地を
分譲し住宅地を造成して提供をしてもいる。さらに同13年130円の寄付をし、それを以て裁縫教
室、事務室が増築されており、同15年教室・便所等の増築費の一部も負担している。

 建学の精神 校是
   誠之人道(之を誠にす人の道)


 
校訓
   一、何事も誠にせよ
   一、よく勤め、よく遊べ
   一、決まりを守り、いいつけに従うべし
   一、何事も元気よくし、人に頼るな
   一、人には親切にすべし
   一、我が国をおもへ
   一、たのもしき人となれ
 

 校門の脇に、 誠之小学校の由来について区教委の説明がある。

     福山藩江戸藩校
                 
誠之館跡    西片2丁目
   「誠之館」は、福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校である。福山藩では、
   天保六年(1786)国元に弘道館を、文政元年(1818)江戸藩邸であるこの地に、
   本郷丸山(西片2丁目)に文武場を設けた。
   嘉永六年(1853)『中庸』の「誠ハ天ノ道ナリ、之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ」から名
   をとり、これを「誠之館」と改めた。「誠之館」では就学義務制をとり、8歳で入学、武
   芸・漢文講読・剣術・槍術など厳格な子弟教育を行い、有能な人材を育てた。明治4年廃
   藩置県にともない閉鎖される。
   その後も阿部家(福山藩)は教育に力をつくした。「学制」公布により小学校制度が発足
   して間もない明治8年同家から資金、敷地の一部を譲り受けるなどして開校したのが「誠
   之小学校」である。
                 東京都文京区教育委員会   平成元年11月


■山極勝三郎住居跡

 西片2丁目15番4号に大正6年から昭和5年まで住んでいた。信州上田藩(現在の長野県上田市)裏鎌原生まれ。
1891年からドイツに留学されて帰国したの1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学で特に癌研究では日本の第一人者世界ではじめて化学物質による発がん実験に成功した化学者さんだそうです。今現在でも不治の病として死亡率トップの癌。この時代から研究されていることに驚きます。近い将来、良い治療法や薬の開発がくるのでしょうかね。

この地に残念ですが、当時の面影を感じるようなものは一切ございません。このプレートのみが山極勝三郎先生と文京区の繋がりを後世に伝えてくれているだけです。ちょっとさみしいですね。

そのプレートには、

以下の通り書いてありました。

   東京帝国大学教授。病理学者。文久3年~昭和5年(1863~1930)。人類の敵ともいうべき”癌”の本態を解く鍵となった化学物質による発癌実験に、大正4年(1915)世界で初めて成功した。博士は長野県上田市の出身で東京帝国大学からドイツに留学。ベルリン大学の著名な病理学者ウイルヒョー(R.Virchow)の影響を受けた。帰国後、市川厚一助手の協力を得て、長期間にわたってウサギの耳に石炭タールを塗り続ける実験で皮膚癌を作ることに成功し、その慢性刺激説を証明した。世界最初の画期的な実験的研究として、その成果は高く評価され、博士の名は世界中の研究者にひろく知られた。病弱であった博士は、ここから人力車で、赤門内の研究室(現在医学図書館敷地)に通って研究を続けた。実験の成功を喜び自ら詠んだ句は、「癌出来つ 意気昂然(こうぜん)と二歩三歩 曲川(きょくせん)」

ーーー郷土を愛をはぐくむ文化財ーーー 

文京区教育委員会 著作  平成7年3月


 


■本郷税務署

 西片2丁目16番27号にある。
 


■第一幼稚園

 西片2丁目17番6号にある区立公園。
 


■西片町教会(韓国系)

 西片2丁目18番18号にある日本基督教団の伝道所。本郷区東片町に下谷教会が伝道を開始した
ことに端を発し、明治22年3月31日、日本メソジスト駒込教会として創立された。その後、同2
9年6月5日西片町の現在地に移転、昭和10年に現会堂が献堂され、爾来営々とこの地、この会堂
で神を拝し、神と民の交わりを形成してきた。


 
戦争責任告白

    私どもは、1966年10月第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いた
   しました。今や私どもの真剣な課題は「明日の教団」であります。私どもは、これを主題
   として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また
   祈りました。まさにこの時においてこそ、私どもは、教団成立とそれに続く戦時下に、教
   団の名において犯した過ちを、今一度改めて自覚し、主の憐れみと隣人の赦しとを請い求
   めるものであります。 
    わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、
   国策として要請いたしました。明治初年の宣教開始以来、我が国のキリスト者の多くは、
   かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりまし
   たが、当時の教会の指導者たちはこの政府の要請を契機に教会合同に踏み切り、ここに教
   団が成立いたしました。私どもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さと
   過ちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責
   任を痛感するものであります。 
    「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。ま
   さに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判
   断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是
   認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明いたしました。実
   に私どもの祖国が罪を犯した時、私どもの教会もまたその罪に陥りました。私どもは「見
   張り」 の 使命を蔑ろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主に赦
   しを願うと共に、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また我が国
   の同胞に心からの赦しを請う次第であります。
    終戦から20年余を経過し、私どもの愛する祖国は、今日多くの問題を孕む世界の中に
   あって、再び憂慮すべき方向に向かっていることを恐れます。この時点において私どもは、
   教団が再びその過ちを繰り返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすこ
   とができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ明日にむかっての決意を表明するもの
   であります。
    1967年3月26日 復活主日               総会議長 鈴木正久


 共同声明

 平成17年秋東京で、姉妹関係を結んでいるソウル・チェイル(ソウル第一)教会と「東北アジア
でのキリスト者の役割」と題して合同修養会を開き、その場で、両教会の名による「東北アジアの平
和のための共同声明」をホームページに掲載しようとの提案がなされ、修養会終了後その内容につい
て検討を重ねた結果、両教会は以下のような内容の声明をば、同18年8月6日に同時掲載すること
で合意に達した。

   私たち、韓国キリスト教長老会ソウルチェイル教会と日本基督教団西片町教会は姉妹関係
   を結んで30周年を迎えようとしています。その間私たちは相互に教会を訪問し、合同修
   養会を重ね、信仰を一つにする交わりを深めてきました。私たちはこれまで互いにそれぞ
   れの教会と私たちを取り巻く問題を覚え、話し合い、祈りあってきました。日韓両国の隔
   ての中垣を取り除いてくださるイエス・キリストの恵みを思い、感謝いたします。
    今この時、私たちキリスト者としての責任を覚え「東北アジアの平和」を実現するため
   に以下の活動を行うことを決意します。平和のための私たちのこの歩みを主が共にしてく
   ださいますように。
    1・東北アジアの平和のために共に祈る。
    2・南北朝鮮の平和統一のために共に努力する。
    3・キリストの教えである武力放棄に基づき、日本国憲法第9条の維持に努める。
    4・日朝国交回復のために共に努力する。
    5・日韓間の歴史に対する正しい認識とその教育のために共に努力する。
   2006年8月6日                   日本基督教団 西片町教会
                       韓国キリスト教長老会 ソウルチェイル教会


■西片二丁目児童遊園

 西片2丁目19番15号にある。昭和45年4月1日開園。


■増田屋本店

 西片2丁目21番7号にある蕎麦屋。冷やしたぬきを考案した店だ。何処でも見かける「増田屋」
の本店。

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