文京区 茗荷谷について

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【小日向】(こびなた)1~4丁目                  昭和41年4月1日
 戦国時代に小日向郷があり、江戸時代は小日向村だった。江戸の町のドーナツ化現象で次第に町
屋が出来て、小日向町在方分・小日向五軒町・小日向三軒町・小日向清水谷町・小日向台町・小日
向水道町・・小日向正智院前町・小日向第六天前町・小日向武島町・小日向八幡坂町・小日向東古
川町・小日向西古川町・小日向松ヶ枝町・小日向茗荷谷町を称えた。
 明治2年小日向五軒町・小日向八幡坂町は小日向台町に吸収、小日向正智院前町は三軒町に吸収。
 同5年持筒屋敷に周辺武家地をあわせて小日向水道端となり、小日向第六天前町は前の字を削除
し、小日向台町は周辺武家地を併合した。同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同1
3年小日向台町は音羽町の一部を編入し、翌年1~3丁目に分けた。同44年「市制町村制改正」
により各町はそれぞれ小日向の冠称を外した。昭和22年文京区に所属、同41年新住居表示によ
り小日向台町1~2丁・目茗荷谷町・三軒町・清水谷町の全部に、小日向台町3丁目(ほぼ全部)
・第六天町(西半)・水道端2丁目(北半)・小日向水道町(北半)、同心町・桜木町・音羽町5
丁目・竹早町の各一部をあわせた町域を現行の「小日向」とした。

 小日向の由来
 鶴高日向(つるたかひゅうが)という者の領地だったので、その跡地を「古日向(こひうが)の
跡」と呼んでいたが、いつの間にか「こひなた」となった(江戸砂子)。地名の語源的には「こひ
(泥)ぬた(沼田)」、つまり江戸川流域の湿地帯という訳だ。また「おびなた」「こひなた」と
いう人もいる。パソコンではどちらでも呼び出せる。小日向といえば、何が何でもバンカラの代表
「拓殖大学」だろう。
 


■小日向寺町 

 小日向1、2丁目の南部、水道端の北側にある寺院群をいう。称名寺・本法寺・日輪寺・善仁寺・
福勝寺・道栄寺・清光院・妙足院・智願寺・還国寺。
 


■荒木坂

 小日向1丁目1番と4番の間の坂道。

   荒木坂
   称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに
   荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約1
   5m)、幅弐軒弐尺程(約4m)」(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日
   向台地の裾を江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水
   に沿った通りを〝水道通り〟とか〝巻石通り〟と呼んでいる。神田上水は、井の頭池を源
   流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋
   敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、
   水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を〝巻石蓋〟と呼んだ。その後、神田上
   水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年までで、以後は、水戸屋敷跡地に設
   けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
                文京教育委員会 平成15年3月
 


広国山称名寺

 小日向1丁目4番11号、神田上水素堀(巻石通り)に面してある浄土真宗本願寺派の寺。本堂は
現代的な和風デザインの鉄筋コンクリート造り。墓地に滝亭鯉丈、関思恭の墓がある。

 
滝亭鯉丈の墓(たきてい りじょう)
 江戸時代後期の戯作者。浅草の出で、通称を池田八蔵また八右衛門といった。
下谷の広徳寺門前に
居を構え、櫛を売って業とした縫箔師(金銀刺繍)だった。食うためにいろろやったのだろう。新内
節の三絃をよくし、また滑稽な戯作で名前をなした。著作には『花暦八笑人』『和合人』『大山道中
膝栗毛』『伊勢道中三方広人』などがある。天保十二年(1841)に没した。

 関思恭の墓(せき しきょう)
 江戸中期の書家。通り名は源内、字を子肅、鳳岡と号し、他に墨指生、恭黙齋と称した。本姓は伊
藤氏。江戸生まれで、水戸の人。先祖は武田家の家臣とされ、曽祖父の伊藤友玄の代になって水戸藩
に仕え、祖父の友近もやはり水戸藩に仕官した。しかしどういう訳か、父の伊藤祐宗(号は道祐)は
生涯仕官しなかった。思恭はこの父と母(戸張氏)の第四子として水戸に生まれ、故あって関氏を名
乗る。幼少から筆や硯を遊具の代わりとするほど書に惹かれた。16歳の時江戸に出て、細井広沢に
その才能を見いだされ入門。その筆法は極めて優れ、忽ち広沢門下の第一となり、広沢が代書させる
に及んでその評判は愈々高まった。特に草書が巧く、時に「草聖」と称せられた。因みに浅草待乳山
の歓喜天堂に掲げられる『金龍山』の扁額は広沢の落款印のあるものの、思恭が代筆したものだ。経
学を太宰春台に就いて学び、詩文は天門から受け、意外にも射術(弓術)に優れた文武両道の人だっ
た。27歳で文学を以て土浦藩に仕え禄を得た。広沢没後は、三井親和と並称され、その評判は益々
高まり、門弟凡そ5000人を数えたという。40歳で妻帯し3女を設ける。60歳頃より神経痛を
患い歩行が困難となり、家族に介護されるもその運筆は衰えなかった。享年69歳。称名寺に葬られ
た。
 門人に関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明、曾孫の思亮、さらにその子雪江と、五
世に亘り何れも書家として名声を得た。の婁機『漢隷字源』を開版している。
 


高源山随自意院本法寺

 小日向1丁目4番15号にある浄土真宗大谷派の寺。本堂は鉄筋コンクリート作りの和風ではない
が立派な建築。右に庫裏、本堂の裏傾斜地に墓地。仕事で行って寿司をご馳走になったことがある。


慈照山日輪寺
 小日向1丁目4番18号にある曹洞宗の寺。正面に鉄筋コンクリート造り本堂。参道右側と本堂裏
手に墓地。本堂の右は庫裏。青山青果の墓がある。

   日輪寺
   日輪寺は小日向水道端町二丁目五十八番地にあり、慈照山と號す、小日向氷川神社の舊別
   當なり、曹洞宗吉祥寺末、現住食土蔵宥法。寺門南に面す、即ち上水端なり、門に秩父霊
   場第十五番母巣山茂福寺寫及び十六羅漢画幅羅漢講の碑あり、本堂は門内正面に位置し、
   玄關庫裡改築の建札あり、本堂の西に一宇あり、十一面観世音を安置す、観世音は氷川の
   本地佛と稱し、堂宇は元氷川神の社殿なり、始め後丘にありしを神佛分離の時、神體は小
   日向神社へ奉遷し、堂宇を移置せりと。
   新編江戸志(九)に云、氷川神社、上水の上、別當慈照山日輪寺、神主宮城崎伊勢守、社
   傳に小日向総鎮守にして、勧請の年歴詳かならず、四五百年の鎮座といへり、社傳に太田
   道灌再興すといふなり。
   江戸名所図会(十二)に云、氷川明神祠、上水の端慈照山日輪寺といへる禅林にあり、祭
   神は當國一宮に同じ、勧請の始久しうして知るべからずといへり、中古太田道灌の再興に
   して小日向の鎮守なり、祭禮は正五九月の十七日なり、當社に元亀の年號ある庚申待供養
   の古碑あり。
   住職の談に天慶年間の草創なり、平貞盛将門討伐の時、始めて此地に勧請せりと傳ふと、
   又小日向神社社掌は景行天皇の御宇日本武尊の勧請と聞くといへり、舊記す今に存せざる
   を以て道灌以前の事蹟、得て詳かにす可からざるなり。

 甘酒地蔵尊(甘酒婆地蔵)
 墓地に上がる入口近くにある。寺の参道で甘酒を売っていた老婆がモデルだとか。酷い咳に長年悩
まされていたこの老婆は「自分は死後、咳の神と成って同じ病気の人々を救う・・・・」と呟いて亡
くなった。咳で苦しんでいる人々を救いたいという故人の志を適えるべく、明治30年代住職が石像
刻み、この老婆にそっくりな〝甘酒婆地蔵尊〟は造られた。矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』に

   本堂に向かって左方にある一老婆の坐せる石像が、音に響ける甘酒地蔵である。生前は与
   力某の妻であったが、血族が死に絶えて孤独となり、自分も重い喘息に悩まされていた。
   咳に苦しむ人を治してあげたいと念じ、余財を甘酒に代え、自宅の門前で接待を始めた。
   婆さんの死後、その家の柘植の木に甘酒のビンをつるして祈願すれば、咳の病は治るとい
   う噂が広まり、誰からともなく、婆さんを甘酒地蔵というようになった。日露戦争の頃、
   日輪寺の住職が石像を刻し、境内においた。爾来、信仰ますます盛んで、痰持、咳持、百
   日咳が不思議に治り、御礼の甘酒や白酒の寄進が相次いでいる。


 とある。

 
真山青果の墓
 明治・大正・昭和期の小説家、劇作家で、本名は彬。尾崎紅葉門下の小栗風葉に師事して小説『南
小泉村』(明治40年)がデビュー作となり、以後小説や戯曲を発表して自然主義の新進気鋭の作家
となる。大正3年に松竹に入社後、新派の脚本を書き、劇作家として一家を成した。田山花袋や国木
田独歩とも親交があり、大正3年独歩の原作の「富岡先生」を戯曲化(邦楽座)している。幕末や維
新を扱った史劇を得意とし、主なものに「慶喜命乙」(東京劇場 昭和8年)、「将軍江戸を去る」
(昭和9年)、福沢諭吉(昭和9年)、「定本不如帰」(歌舞伎座 昭和11年)などがある。また
西鶴研究でも知られ、昭和23年71歳で亡くなった。

 清水赤城の墓
 幕末の儒者、兵学者。上野国群馬郡高崎(高崎市)生まれ。諱は正徳。字を俊平。通称を俊蔵。淡
菴、虚舟、正気堂とも号した。9歳の時、医師である父謙山に伴われて江戸に出て儒学を修めた。特
に武術、兵学を好み、長沼流兵学を島田正脩、和合猶水に就いて学び、天文暦算を本多利明から教え
られ、さらに剣、槍、砲などの諸武芸を学ぶ。文化三年(1806)ロシアによるエトロフ攻撃に刺
激を受け、星山流、南蛮流、自得流などの砲術を研究、これに中国、オランダの砲術を取捨し『火砲
要録』9巻を著した。しかし晩年はオランダ砲術の勃興期に当たり、形式化していた和流砲術は急速
に権威を失う。滝沢馬琴ら文人とも交友があった。長男礫州は随筆『ありやなしや』の著者。4男は
大橋訥庵(江戸後期の儒学者)。 

 日本最初の私立幼稚園?
 境内にある小石川幼稚園は、明治19年山田千代によって創立された。しかし同13年に桜井チカ
が桜井女学校内に併設したのが東京最初であるといわれ、横浜の共立幼稚園もミッション系幼稚園と
して創立している。さらに明治12年芝公園に近藤はまが近藤幼稚園を開園させている。なお小石川
幼稚園は昭和20年愚かなアメリカ軍の空爆によって焼失、再建されることはなかった。


鶴高山善仁寺

 小日向1丁目5番9号にある浄土真宗本願寺派の寺。面白いのは住職の名字も鶴高というんだよ。


■横町坂

 小日向1丁目6・7番と8番の間の坂道。服部坂の途中から東へ下る。よこちょうざか。鉄砲屋敷
の横町なのでその名がある。
 


天龍山福勝寺

 小日向1丁目8番15号にある浄土真宗本願寺派の寺。 


清浄山生西寺
 小日向1丁目10番18号にある浄土宗の寺。 


■小日向公園
 小日向1丁目11番4号にある区立公園。昭和51年3月31日開園。


■茗荷谷児童遊園
 小日向1丁目19番7号にある区立公園。


■切支丹屋敷跡の碑

 小日向1丁目24番8号地先の路地際に建つている。碑のある付近一帯は、もと宗門奉行井上筑後
守政重の下屋敷だった。正保三年(1646)岡本三右衛門を始め卜意・南甫ら禁制の切支丹宗徒を
監禁するため、下屋敷を切支丹牢屋敷(別に山屋敷の俗称)にした。三右衛門はイタリア人で、本名
はギュセッペ・キアラ、一般にはジョセフ・カウロと呼ばれていた。寛永20年切支丹禁制下布教の
ため潜入したが捕らえられた。取調べを受け、締められると直ぐに棄教、日本人妻を娶り、名を岡本
三右衛門と名乗って恭順の姿勢を示し山屋敷に住み、貞享二年(1685)に没した。牢に入れられ
た切支丹は相次いで死亡し、正徳四年(1714)もしくは翌十年牢は焼失した。僅かに役所・倉庫
などが残されたたが、寛政四年(1792)それらも廃され、跡地は分割されて旗本宅地とされてし
まい、切支丹屋敷の面影は全く消滅してしまった。切支丹はキリスト教徒、特にカトリック教徒をと
いう。碑のあるところから東に下る坂を切支丹坂という。

   都指定旧跡 切支丹屋敷              所在地 文京区小日向1‐24
                             指 定 大 正 7 年 4 月
   江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改めに任じ、キリスト教徒
   を厳しく取り締まった。この附近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、
   正保三年(1646)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し、宗門改めの情報集め
   を開いた。主な入牢者に、イタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。享保九年
   (1724)火災により焼失し、その後再建されぬまま、寛政四年(1792)廃止され
   た。
   昭和59年12月28日                     東京都教育委員会

 キリシタン禁止の本当の理由
 何故キリシタンが、奴らがいうところの極東(FarEast)に、のこのこやってきたかという
と、平泉は中尊寺の金色堂のことを、何処で仄聞したか、ユダヤ人マルコ・ポーロが「東方見聞録」
に書いたことから、愚かなユダヤ人達は、「ジパングというところでは黄金の家に住んでいるんだ」
と錯覚し、ジパングに行って黄金を奪ってこようと考えた。彼のコロンブスもその一人で、西回りで
行けば、より速く行き着くだろう信じて西に向かって行って北アメリカ大陸にぶつかった。アメリカ
発見はコロンブスということになっているが、先に辿り着いたのはアメリゴ・ベスプッチだ。だから
アメリカって名な訳よ。
 で、コロンブスに限らずユダヤ人達は日本を目指した。マゼランもそうだし、ザビエルもそうだ。
スカル&ボーンズ(髑髏マーク)を背負った海賊は皆ユダヤ人だよ。いっとくが、フェニキア人、カ
ナン人、ベネチア人、ハザール人は全部ユダヤ人だよ。奴らは皆イエズス会の会員で、その使命受け
て日本を乗っ取りにやってきた。インドを見ても、東南アジア、アメリカを見ても解るだろう。奴ら
は泥棒、強盗なんだ。奴らの博物館を見てみろ。世界中から奪い盗んできたお宝の山だ。イエズス会
(黒い貴族、マルタ騎士団、オプスデイ、イルミナティ、フリーメイソンリー、スカル&ボーンズ、
300人委員会et cetera )は、乃ちユダヤ国際金融資本で、世界制覇を目論む。世界統一、世界政
府、議会制民主主義、自由主義、共産主義、個人主義、ウーマンリブ・・・これら聞こえの良い言葉
で釣って自分たちにだけ都合の良い世界を作ろうとしているのさ。それはキリスト教を拵えた時に始
まってるのさ。世界平和、聞いて呆れるぜ。奴らは揉め事を起こしては乗っ取って行くんだよ。それ
が「鉄炮伝来」だ。文明がやってきたんじゃねえ。悪魔(ルシファー)がやってきたのさ。だから戦
国時代って訳よ。日本は大混乱、鉄炮の火薬の原料である硝石の奪い合いさ。奴らは死の商人、鉄炮
を持ってきて戦国時代を醸成し、混乱に乗じてそっくり国を頂こうってえ寸法だーな。
 その危機を感じた豊臣秀吉や徳川家康がキリシタン禁令を発したのは、奴らがとうとう硝石の代金
に土地を請求し、土地を所有したことによる。当時日本の娘たちがその代価として売り飛ばされ、悪魔の使徒ザビエルらは、50万人もの日本娘をヨーロッパに拉致したのさ。そのことを奇しくも「天正の少年使節団」が帰国報告してるから、嘘も偽りもねえだろ? ザビエルがイエズス会に報告したこと。

   日本人は将来必ず我々の前に立ち塞がる敵となることでしょう。日本人は総て皆殺しにし
   て殲滅しなければ、我々ユダヤが滅ぼされてしまうでしょう。


 鉄炮が、それを持ってくるキリシタンが、「諸悪の根源」だと理解した家康は、キリスト教の敷衍を停止し、それを宣教する南蛮人、バテレンを締め出したというのが〝鎖国〟なんだ。
 それから300年、諦め切れなかった奴らは、虎視眈々其欲逐々、狙い澄ましていたら、朝鮮人の
多い長州が反旗を翻したことに付け込んで惹起したのが「明治維新」だ。イエズス会(ユダヤ国際資
本)は反幕勢力に革命資金を流し込んだ。これがユダヤの常套手段だ。幕末に長崎にいたトーマス・
グラバーや、アーネスト・サトーらは皆その手先のフリーメーソン。
 グラバーに洗脳された坂本龍馬がフリーメーソンリーたどいわれるのはむべなるかなだ。長州藩士
の多くは朝鮮人で日本人とは感覚が違う。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三、どいつもこいつも日本人ぽ
くないだろう。だからこそ伊藤博文こと朝鮮人林利助は、スコットランドでユダヤに唆されるままに
孝明天皇を弑逆できたのだ。その伊藤を殺した安重根がその殺人理由に「天皇を殺したから」といっ
たために公開裁判は中止され、以後暗黒裁判で判決され秘かに処刑された。安重根を英雄視するが、
朝鮮人同士の殺し合いではある。
 そして日露戦争、ロシア革命が仕組まれ、ヒトラー、スターリン、ルーズベルトは皆ユダヤ人で、
黒い貴族(シェルバーン)の手先、第2次世界大戦をプロデュースして、日本は引きずり込まれた。
日本の敗戦はおろか、原爆投下も既定事実で、昭和天皇はその総てのことを知っていた。というより
ユダヤと結託していた。だから戦争責任を問われなかった。

 凄い噂がある。広島に原爆を投下したのは昭和天皇だというのだ。原爆研究は各国でやっていた。
日本では理研で仁科芳雄が開発に至らず終戦を迎えたということは有名だが、実は原爆研究は陸軍で
も海軍でもやっていて、陸軍は満州に4ヶ所、海軍は北鮮に2ヶ所の研究所を持っていた。因みに広
島に落とされたものを「リトルボーイ」、長崎のを「ファッツマン」という。しかしリトルボーイは
「スィンマン」を短くしたための命名だとアメリカは説明している。果たしてそうなのか? 実は日
本の原爆は、敗戦1ヶ月前の7月12日に完成し、これをアメリカに落とすと天皇に説明したら天皇
は激怒、そんな恥さらしなことはするなと命令したという。では日本の原爆は何処に行っちゃったの
だろうか? モスクワのアーカイブスに「日本から原爆を受け取った」というシベリア発の電文が残
っている。これは何を意味するのか? ドイツでも原発は完成し、ヒットラーはそれをアメリカに引
き渡した。それが「ファッツマン」? ではアメリカは原爆のニックネームを何に基づいて命名した
かというと「ファッツマン=でぶ」「スィンマン=のっぽ」で、英首相チャーチルと米大統領ルーズ
ベルトを表しているというのだが、では「リトルボーイ=ちび」は、昭和天皇を表しているのではな
いか? 原爆投下についてはスチムソン陸軍長官からヨハンセン(吉田茂)を通じて天皇に連絡が入
っている。広島に投下された原爆は日本製なのではないか? 8月6日何故か投下地点に丸腰の陸軍
兵80000人が集結させられたが、原爆犠牲者140000人の数の中にはカウントさられていな
い。そして天皇は広島の原爆投下に憤りを示さないばかりか生涯コメントしていない。そして天皇は
一度として原爆被害者を見舞うことはなかった。では何故広島に原爆を投下させたのか? 明治天皇

は山口県田布施の大室寅之祐だという。田布施は朝鮮部落で母親が寅吉を連れ子して再婚、寅之祐と
改名したもので、大室家とは血の繋がりはない。つまり明治天皇は北朝系でないばかりか、南朝系で
もない朝鮮人そのものなのだ。だから昭和天皇はその痕跡を消したかった。しかし被害が広島市内に
止まってしまったため思いは遂げられなかった。何もコメントできない訳だ。
 ではロスチャイルドは、何で原爆を投下したのか? ウランを売るためだ。実はロスチャイルドは
大正から昭和初期、ウラン鉱を持て余していたのだ。ポーランドから、ユダヤ人であるキューリー夫
妻をバリに呼び寄せて研究させると、キューリー夫人が「放射能」を発見し、ウラン鉱が並々ならぬ
エネルギー資源であることを知り、配下の科学者が、原爆という超兵器ができること、平和的には発
電エネルギーとなることを報告されると、原爆を拡散する訳には行かないが、原発は売り物になる。
そうすればウランが捌けると判断し、原爆をデモンストレーションとして投下することにしたら、天
皇が「広島に」といってきたという。天皇を戦争犯罪者にしないようにとマッカーサーに指令したの
はイギリス王室だ。ルーズベルトは原爆投下に尻込みして殺された。大統領を辞めたいと洩らした翌

日の急死だ。これが暗殺でなくて何というのか?
 山本五十六もフリーメーソンリーで、真珠湾攻撃で第2次強襲を南雲長官に要求せず、アメリカに
ダメージを与えなかった。山本の死に方もおかしい。不時着した機に誰かの遺体はあったが、山本の
遺体はなかった。山本は敵たるアメリカ軍に救助され、ドイツで余生を送り死んだらしい。態と負け

る戦争を演出したのは山本だが、「そうさせた奴」がいるということだ。。
 かくてイエズス会(ユダヤ国際資本)は日本を属国とした。沖縄は昭和天皇がアメリカに「ご自由
にお使いください」といった。自分だけ良い子になって、陸軍に責任を擦り付けたから、軍をそのま
まにしていたらクーデタを食らうかもしれないので、戦争放棄を名目に危険を回避した。しかし勘違
いして中国が攻めて来たらいけないので、沖縄をアメリカ軍にやって護国の守りとした。しかしそれ
も長いことではなく、熱りが冷めたら再軍備しようと思ったのだが、平和民族日本人は再軍備を拒絶

する。これには昭和天皇も困った困っただ。
 北方領土は、アメリカがソ連(ロシア)に譲ったというし、日本は売国奴だらけだ。日本の政治家

・官僚・財界人はその多くが半島人で皆奴らの手先だし、困ったもんだネ。
 こんな状態で憲法改正かい? 国会議員の7分の1は近くは外国人だ。日本の中枢に日本人はいな
いんだよ。再軍備したら、日本人だけが戦場で殺されることになる。ザビエルがいったよね。日本人
は皆殺しにしなければならないと。少子化、保育所の問題は皆ユダヤの仕業だ。
 


 
●キリシタンの骨が出た

 屋敷跡にマンションを建てることになり、平成26年7月発掘調査したところ、3基の墓と人骨が
出土した。国立科学博物館がDNA鑑定、人類学的分類を行ったところ、内1体は「170cm超の
イタリア人中年男性」と判明。屋敷の記録に残るイタリア人は、遠藤周作の小説「沈黙」のモデルに
なった享年84歳のキアラとシドッティしかおらず、文献から「175.5~178.5cm」の長身
で享年47歳と判っているジョアンニ・バチスタ・シドッティの特徴とも一致したことから「ほぼ間
違いない」と結論づけた。禁教下の宣教師と見られる人骨で個人が特定されるのは初めてという。
 シドッティは、宝永5年(1708)に屋久島で捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に収容。幕府の実
力者だった新井白石が尋問し、当時の海外事情を「西洋紀聞」にまとめた。白石は助命に尽くしたが
シドッティは牢の役人夫妻を入信させたため地下牢で獄死。調査を主導した谷川章雄早大教授(人間
科学)によると、別の2体の人骨はこの夫妻の可能性があるという。1体は日本人男性と判明。もう
1体の性別などは不明だが、歯にお歯黒のようなあとがあり、華奢な骨のため女性と考えられるとい
う。イタリアのG・B・シドッティ日伊歴史資料館のピノ・マラス館長は「禁を犯した3人が並べて
手厚く埋葬されたなら、禁教下の江戸幕府の寛容さを示すものともいえる」。世田谷にある聖アント
ニオ修道院のマリオ・T・カンドゥティ神父は「最後まで布教を諦めなかったシドッティは見事な殉
教者。列聖などの再評価をバチカンにも働きかけたい」と話している。ユダヤ人として何とか日本占
領のきっかけを作ろうとしたのだろう。明治維新まで200年。ユダヤも頑張るね。


■切支丹坂(キリシタン坂)

 小日向1丁目24番の切支丹屋敷南側にある100mばかりの坂道。坂下から東に上っている雁木
坂もキリシタン坂と呼ばれたり、書かれたりしているが、こちらは本名は庚申坂だ。


■神社

 小日向1丁目26番12号にある小祠。
 


■貞静学園保育福祉専門学校

 小日向1丁目26番13号にある私立の専修学校。昭和62年150mほど西北にある大塚1丁目
の貞静学園から独立移転してきた。
平成7年卒業時に専門士の称号が付与される。同11年介護福祉
専攻科(1年)を新設。貞静学園保育専門学校を「貞静学園保育福祉専門学校」と改称。同15年校舎
増築。
 専門学校を廃校にして、短期大学に替えるらしい。この少子化の中で学校が生き延びるのは至難の
業だ。女子高の共学化、ホテルのような校舎への建替え、有名デザイナーへの制服デザイン依頼と、
学校経営は金がかかる。小学校は数年で1100校も減るんだぜ。
 


花渓山道栄寺

 小日向2丁目1番22号にある曹洞宗の寺。詳細不明。 


■新渡戸稲造旧宅跡

 小日向2丁目1番30号(小日向台町2丁目75番地)の関東財務局住宅のところにあった。区の
説明板に、

   新渡戸稲造(1862~1933)は、農学者、教育家、国際人、南部藩士の子として盛
   岡で生まれ、幼くして上京した。
   明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。さらに、東京帝国大学に
   学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
   明治24年メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。後、京都
   帝大教授を経て、明治39年第一高等学校校長となり、学生に深い影響を与えた。その後
   東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となった。また地元拓殖大学の学監(学長)も
   務めた。
   「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を
   西洋に、また西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。大正9年には国際連盟事務局
   次長となり、〝連盟の良心〟といわれた。昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長と
   なり、きびしい国際情勢のなか平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。
   ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ば
   れた旧居跡である。
   昭和59年3月                         文京区教育委員会

 とある。新渡戸は札幌農学校でクラーク博士に感化されキリスト教にのめり込み、アメリカ留学中
にキリスト友会(クエーカー派)に入信し、同派フレンド婦人外国外国伝道会々長の娘メアリー・モ
ーリスと結婚した。留学中にキリスト教的教育の必要を説き、フレンド婦人外国外国伝道会に普聯土
学園(普連土学園 FRD学園)を開かせた。農学校の同期が内村鑑三で、共にキリスト教の普及に
一生懸命となり、サロン「小日向会」を開催した。著名人の親睦会だったが、弟子の一人が前田多門
(初代宮内庁長官)で、皇族、宮内庁にクエーカー派が蔓延らせることとなった。
 5000円札の肖像の人だ。 


■小日向台町小学校

 小日向2丁目3番8号にある区立校。明治35年1月に茗荷谷の町内に校地を購入する交渉がほぼ
纏まったのだが、その後話が進捗せず、4月小日向台町1丁目に所有者の行為により坪8円という金
額で総数813坪の校地が確定。同37年「東京市小石川第二尋常小学校」として開校。197名で
スタートした。当時区内には尋常小学校は3校開校していたが、就学児童の増加に伴い、小学校の増
設が望まれるに至った。その結果2校増設されることになり、「東京市小石川第二尋常小学校」とし
て開校したのが前身だ。同41年それまで便宜上称えていた小石川第二の呼称を判りやすい命名に変
えようということになり、初案では「小石川台町」だったのだが、異論が出て、「小日向」「小日向
台」「小日向台町」の3案が出され、小日向とするか、小日向台町とするか、大いに論じられたもの
の、結局現在の「東京市小日向台町尋常小学校」に落ち着いたという。
 大正3年新設の青柳尋常小学校に2学年以上以上の児童539名を移籍。同14年新設の関口台町
尋常小学校に2・3・4学年児童90名移籍。同15年新設の窪町尋常小学校に2~5学年140名
を移籍。昭和13年鉄筋コンクリート造り3階建て改築校舎落成。同14年校歌制定。当時学校職員
だった黒羽亘教教諭の恩師に当たる東京音楽学校に勤めていた高野辰之に作詞を依頼、作曲は信時潔
が手がけた。作詞に当たって高野は来校し、屋上から眺められる景観をもとに構想を練ったという。

  1.ここ小日向の台町に
    聳ゆる我らの学校は
    明るく広く朗らかに
    生気はいつも満ちてけり
  2.昔を語る椎の木は
    寄り来る我らを励まして
    撓まず折れず色変えず
    代に仰がるる人たれと
  3.西の富士の嶺 眺めては
    望みを高く清く持ち
    時の流れに棹差して
    進みて止まぬ身とならん


 同15年難聴児童の4学級を特設。同16年国民学校令により「東京市小日向国民学校」と改称。
講堂兼屋内体操場竣工。12月日米開戦。同19年鳴子温泉に学童集団疎開。同20年5月愚かなア
メリカ軍による非人道的無差別空爆により木造校舎、屋内体操場焼失。鉄筋校舎1階被災。古木椎の
木焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいな
りになる傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。10月疎開解除により学童帰校。
同21年黒田国民学校が廃校となり併合。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都文京区立小日向台町小学校」と改称。同2
9年創立50周年記念式典。同35年屋内体育館完成。同39年創立60周年記念式典。同49年
立70周年記念式典。同53年備蓄倉庫落成。同56年校庭全面舗装。
 平成4年プール改修。コンピュータ室完成。同12年食堂完成。同16年教室冷暖房化。同17年
創立100周年記念式典。

 
開校百周年記念碑

 門を入った左手、体育館の壁に沿って建てられている。

   開校百周年記念碑
                サトウハチロー
                大正五年本校卒業

   椎の木は
   
ぼくみたいに頭でっかちだったよ
   椎の木の枝の間から
   いつも空がみえてたよ
   その空だけが
   ほかの空よりずっと青かったよ
   平成16年11月吉日
      
小日向台町小学校同窓会建立
   
       同窓会会長秋田良吉
 


■小日向台町児童遊園
 小日向2丁目8番14号にある区立公園。昭和28年3月18日開園。


■小日向児童遊園
 小日向2丁目9番東北角にある区立公園。平成13年10月1日開園。


智鏡山大円寺
 小日向2丁目9番20号にある浄土宗の寺。慶長三年(1598)開山は〝ぶんぶく茶釜〟の館林
は茂林寺の12世久山正雄和尚で、開基は河内源氏の石河(いしこ)土佐守勝政。勝政は初め小早川
秀秋に仕えたが、後に徳川家康に従って和泉堺の政所職を勤めて2700石の旗本になった。以後石
河家は長崎奉行・大目付・京都町奉行・江戸町奉行・勘定奉行・側衆まで務める高級旗本となった。
 本堂は昭和の初め29世法秀田太元和尚の時宮内省内匠寮の中里清五郎が設計した。中に高村光雲
作の3メートル余の観音像7体、すなわち千手・不空・羂索・准提・十一面・馬頭・聖の7観音がず
らりと安置されている。否、いた。昭和20年のアメリカ軍の無差別爆撃で寺宝の大半を焼かれてし
まった。残ったのは光雲作の本尊釈迦如来、出山釈迦像、虚空蔵像、大黒天像、慈母観音像で、焼け
た7観音は弟子たちによって昭和50年に再刻された。

 焙烙地蔵
 放火の罪によって火炙りの刑に処せられた八百屋お七を供養するために建立されたと伝えられる。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙を頭に被り、地蔵自ら焦熱の苦しみを受
けられているといわれている。この地蔵は、脳や眼、鼻、耳の病、ノイローゼなど、首から上の病気
平癒に霊験新たかとされ、焙烙に患部や願い事を墨で書いて供え、治ったらまた焙烙を納める。地蔵
の前には沢山の焙烙が積み重ねられているねぇ。ご利益は「首からの上の病気平癒」

 高島秋帆の墓
 江戸時代末期の砲術家。墓所は柵で囲まれ、秋帆の墓を中心に、コの字形に6基の一族縁者の墓石
が配置されており、昭和18年国の史跡に指定された。寛政十年(1798)長崎生まれ、出島のオ
ランダ人から西洋砲術を学び、彼の習得した砲術は「高島流砲術」と呼ばれた。アヘン戦争で清国が
大敗すると、天保上書を幕府に上申、砲術技術の変革を唱え、西洋式軍事技術の導入を説いた。その
後、幕府守旧派の策謀により投獄されるが、ペリー来航をきっかけに放免され、鉄砲の鋳造などに従
事し、幕府の軍事に貢献、慶応二年(1866)に69歳で没した。

 斎藤緑雨の墓
 明治時代の小説家・評論家。慶応三年(1867)藤堂藩の典医の長男として伊勢国鈴鹿に生まれ
た。坪内逍遥の『小説神髄』を読み、文学の道を志した。幸田露伴、森鴎外を知り合い、作家活動に
入る。「文芸評論雑誌」〝めざまし草〟で、鴎外、露伴、緑雨の3人が新進作家の作品に対する合評
を行った。これが「三人冗語」である。この中で樋口一葉の『たけくらべ』を絶賛した。のみならず
一葉の福山町を訪れ、その病中から病後まで、樋口家のため尽力した。
 樋口一葉の晶(明治29年5月29日)には、緑雨について次のような文がある。

   正太夫、としは二十九、やせ姿の面やう、すご味を帯びて、唯ロもとにいい難き愛敬あり。
   この男、かたきに取っても、いとおもしろし、みかたにつきなば、なおさらにおかすかる
   べく、眉山(川上)、禿木(平田)が気骨なきにくらべ、一段の上ぞとは見えぬ。


 明治37年没。墓誌銘は幸田露伴が筆を執った。
 


■小日向神社

 小日向2丁目16番6号にある。明治2年氷川神社と八幡神社を合祀して「小日向神社」とした。
氷川神社は、天慶三年(940)の春、当時常陸国にあった平貞盛が、この地方を平定して、現在の
水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立したのが創祀という。また八幡神社は、昔の名を「田中八幡
社」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。創立は、貞観三年(860)の春と記述されてる。
本当ならとっても古い神社ということになる。


■黒田尋常小学校 廃校

 小日向2丁目16番15号の五中のところにあった区立校。明治6年福岡藩最後の藩主(12代)
黒田長知侯爵が基金を提供し「二十六番小学黒田学校」として開校。同37年第二尋常小学校(小日
向台町尋常小学校)分校。同41年新設の金富尋常小学校に一部児童を移籍。大正3年新設の青柳尋
常小学校に一部児童を移籍。昭和16年国民学校令により「東京府東京市黒田国民学校」と改称。1
2月日米開戦。同18年都制施行により「東京都黒田国民学校」と改称。同19年8月宮城県鳴子温
泉に学童疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校壊滅。跡地に被災者
住宅。同10月疎開解除により児童帰京。近隣各校に分散。同21年再起ならぬまま廃校となる。同
24年被災者住宅撤去後、区立五中の校地となる。

 校歌「月 雪 花」 作詞・御歌所寄人武島又次郎  作曲・東京市視学田村虎蔵
  1.月 雪 花と変わり行く
    都の景色見下ろして
    歴史久しき学校
(まなびや)
    通うも楽し丘の上
  2.天皇
(きみ)と神とを慈しむ
    教え守りて朝夕に
    心 質実剛健に
    学ぶ吾等は幸多し
  3.校の徽章
(しるし)の藤の花
    その優しさを鑑
(かがみ)とし
    栄え果てなき日の本と
    承け継ぐ民といざならん

 2番の「質実剛健」は黒田長成侯の校訓、3番の藤の花は黒田如水の吉祥。

 主な卒業生
 永井荷風(作家)・黒澤明(映画監督)・初代水谷八重子(新派女優)・松平恒雄(宮内大臣 秩
父宮妃勢津子の父)・中勘助(詩人・作家)・夏川静江(女優)・夏川大二郎(静江の弟 俳優)・
夏川かほる(静江の娘 女優)

   黒田小学校跡地
   黒田小学校は明治11年第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。
   当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の
   功労による、政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。
   東京府はその篤志を永久に伝えるため、校名を黒田学校とした。初めの校舎は、南北2棟の
   木造で8教室であった。昭和11年校舎は鉄筋3階建てコンクリート造りとなった。黒田家
   ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、名門校として、各界に多
   くの卒業生を送った。卒業生の中には、永井荷風(作家)、黒澤明(映画監督)、松平恒雄
   (宮内大臣)などがいる。昭和20年空襲で校舎は全焼し、翌年3月31日を以て、黒田小
   学校は廃校になり、輝かしい68年間の歴史を閉じた。戦後、校舎は改修され、昭和24年
   新制区立第五中学校(創立は昭和22年)となったが、黒田小学校の校風は脈々と受け継が
   れている。黒田小学校の名残りの藤の木は、正門右上に移植され、今も花を咲かせている。
   黒田小学校校歌
   月雪花と変わり行く 都の景色見下して 歴史久しき学校学舎に通ふも楽し丘の上
               文京区教育委員会 平成11年3月
 


■第五中学校
 統合のため閉校
 小日向2丁目16番15にあった区立校。昭和22年アメリカの強制による学制改革により区立中
学校の一つとして小日向台町小学校内に開校。同24年6月2学年、10月1学年黒田国民学校跡地
に移転。同25年関口台町小学校にて校歌発表。10月全生徒黒田国民学校跡地に移転完了し独立校
舎となる。


 校歌「
都鳥舞う」 作詞・浪本蕉一 校訂・窪田空穂  作曲・信時潔
  1.都鳥舞う江戸川の
    流れに近き丘の上
    古き由縁の地を占めて
    我が学舎は聳え立つ
  2.この学舎を家として
    師の御教えに導かれ
    友同胞
(はらから)と睦みつつ
    学びの道に勤しまん
  3.国の朝明け 鳴り渡る
    自由の鐘は人類の
    幸を目指して学べよと
    我らの胸に響くなり
  4.光遍く地に満つる
    新しき世を築くため
    心は広く大らかに
    相携えていざ立たん


 同26年から校内諸施設の充実化に着手、音楽室・理科室・図書館・工作室・家庭科室などの特別
教室整備、校地も隣接の開成館の敷地を買収して拡張した。同28年講堂改修。この頃区立中学の連
合行事に頻繁に使用された。同31年玄関改修。同32年休館3階改修。旧黒田国民学校時代の校庭
と開成館跡地の整備。同32年10周年記念式典。同34年理科用備品、工作室の機械類の設置。新
校舎建設のため隣接地の購入。同35年新館落成。段差のある運動場に土盛りして第一と第二運動場
を平面接続。社会科室・第二理科室・技術科室を設置。同36年講堂の床の張替え。旧館北側のサッ
シュ窓取替え。37年8校舎増築。同38年旧館南側サッシュ窓取替え、壁の一部補修。同39年ミ
ルク給食室新設。同40年玄関の塗装。全教室に蛍光灯取付。同42年給食調理室新設し完全給食実
施。創立20周年記念式典。同43年旧館3階4教室の床板、屋上コンクリート床改修。校壁金網改
修。同45年11教室の防音工事、送風機の設置。同47年創立25周年記念式典。同49年校庭を
ウォークトップ舗装。災害用井戸完成。同50年玄関庇(ひさし)取付。校庭外壁改称。同51年講
堂照明改修。同52年念願の隣接地を買収し第二校庭とする。同53年この地にあった黒田小学校1
00周年記念式典。同55年第10回全国中学校バスケットボール大会準優勝。同56年新体育館落
成。校庭全天候型舗装。平成2年旧校舎改修。同4年新校舎改修。同5年創立50周年記念式典。同
21年3月七中と統合のため閉校。音羽中学校となった。

 音羽中学校 移転
 平成21年第五中学校と第七中学校を統合して新設、第五中学校跡地に開校した。大塚1丁目9番
24号に新築された校舎に移転した。
 跡地は筑波大学東京キャンパス小日向地区校舎になった。
 


■筑波大学東京キャンパス小日向地区校舎

 小日向2丁目16番15号(第五中学校跡地)にある国立大学のキャンパスの1。大塚地区から

属学校教育局・特別支援教育研究センター・教育研究科(特別支援教育専攻)・理療科教員養成施設
が移転した。
  


■江戸川橋体育館

 小日向2丁目16番15号旧第五中学校体育館を有効活用してバリアフリー等の改修工事を行い、
区内3ヶ所目の体育館として平成24年4月1日に開館。
 


服部坂

 小日向2丁目16番と1丁目7番の間の坂道。江戸川橋体育館(旧第五中学校)の塀に説明板が貼
り付けてある。

   服部坂                          小日向1‐7と2‐16の間
   坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋
   敷跡には、明治2年に小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいところとして、『日
   和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡
   すによい」と書いている。
   坂下にある旧文京区第五中学校は旧黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。
   戦災で廃校となった。
                文京区教育委員会 平成9年3月
  


■清光院

 小日向2丁目17番2号にある臨済宗円覚寺派の寺。詳細不明。


■大日堂 → 覚王山妙足院

 小日向2丁目17番6号にある天台宗の寺。草創は寛文二年(1662)、開祖は浩善尼上人(紀
州家の奥女中)。石段10段上がって境内となり正面に本堂、右に庫裏。坂の途中に大日堂があった
ことから、寺前の通りを大日坂といい、後にこの堂が妙足院になった。
 


■大日坂(八幡坂)
 小日向2丁目17番と18番の間の坂道。坂上に小日向神社に合祀された田中八幡社があったので
八幡坂と呼ばれていた。八幡社がなくなってから、坂の中途にある大日堂によって大日坂と呼ばれる
ようになった。

   大日坂
   「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
   この「大日堂、とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日
   堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神
   社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所であ
   る。

    この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(折口信夫 筆名釈超空)

               東京都文京区教育委員会 平成元年3月
 


■智願寺

 小日向2丁目18番3号にある天台宗の寺。詳細不明。
 


■安養山還国寺

 小日向2丁目19番7号にある天台宗の寺。「東都歳時記」によれば木像と石像の閻魔王を祀って
いるとあるが、江戸時代の像は戦災などで現在は無く、今の閻魔王像はその後作られたものというこ
とだ。閻魔堂は寺の門を入ってすぐ右にあり、閻魔王はその中に納められている。
 


■鷺坂

 小日向2丁目19・20番と21番の間、住宅街にあって、目白坂下南交差点を東に向かって入る
道があり、
東北東に上り、途中鋭く折れ曲がって北西へ上るの坂道。突き当たって鋭角に左に折れる
ところに、区の建てた案内板とその下に背の低い古い石柱が立っていて「鷺坂」と刻してある。江戸
時代にこの坂道はない。この坂上の高台は、徳川幕府の老中職を務めた関宿藩久世家の下屋敷のあっ
たところだ。 ために土地の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。明治以降住宅地となって坂道
は作られた。詩人で仏文学者の堀口大学、その尊父長城堀口九万一が居住した。そして近くにんだ詩
人三好達治、佐藤春夫などによって山城国の「久世の鷺坂」と結びつけた「鷺坂」という坂名が、ご
く自然な響きをもって世人に受けいれられ、かくて新坂は「鷺坂」となった。けして鷺阪伴内に関わ
るものではない。
 足下の石柱、揮毫は長城堀口九万一によるが、正面に「鷺坂」、右面には万葉仮名で、「山城久世
乃鷺坂自神代春者張乍秋者散来」、左面には読み下しで、
山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ
秋は散りけり」、裏面は「昭和七年七月 久世山會建之」
とある。この和歌は「萬葉集」所載だ。文
学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。 古い説明板。

   
鷺坂
   この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあっ
   たところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
   この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~)やその
   父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住するようになる。この堀口大学や、近くに住ん
   でいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」と
   いう坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
   足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面
   には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで
   
    山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり 

   とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
                文京区教育委員会 昭和51年3月


 堀口大学がまだ生きていた。新しい説明板。

   鷺坂
   この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあっ
   たところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
   この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)
   やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでい
   た詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という
   坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
   足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面
   には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで
   
    山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり 

   とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
                文京区教育委員会 平成17年3月


 本物の「久世の鷺坂」は、京都府城陽市、JR奈良線城陽駅から東北に五分、久世神社が目安。


■小日向二丁目児童遊園
 小日向2丁目23番15号にある区立公園。昭和57年6月1日開園。


■茗荷坂

 小日向3丁目4番と9番の間(拓殖大学東門前)を北に上がって行き、地下鉄丸の内線茗荷谷駅の
裏を坂上とする。江戸時代は、小日向3丁目1・2番と小日向1丁目26番の間、拓大の南側の坂道
をいったようだ。

   茗荷
   「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これ
   によると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅
   方面へ上る坂をもいっている。
   茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
   さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りし
   ゆえの名なり云々。」とある。
   自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
                 文京教育委員会
 


天下の拓大 拓殖大学/短期大学併設
 小日向3丁目4番14号にある。明治33年桂太郎の発想による台湾の開拓を実施するための人材
を育成する教育機関、台湾協会の専門学校「台湾協会学校」として開校した。初年度は独立した校舎
を持たず、法政大学の一部を借用していた。翌34年現在地に新校舎を建てて移転。同37年「台湾
協会専門学校」と改称、同40年「東洋協会専門学校」を経て、大正7年に「拓殖大学」と改称、同
11年大学令による大学認可により「東洋協会大学」と改称。天皇から恩賜金御下賜。同3年恩賜金
により「恩賜記念講堂」建立。同15年再び「拓殖大学」と改称。
 教育方針は「積極進取の気概とあらゆる民族から敬愛されるに値する教養と品格を具えた有為な人
材の育成」だ。

 戦後
 昭和20年学制改革に伴い新制大学として発足。商学部・政経学部を設置。同24年GHQ指令に
より拓殖大学の名称使用禁止。「紅陵大学」と改称。同26年大学院修士課程設置(経済学研究科・
商学研究科)。同29年晴れて「拓殖大学」に戻称。同41年「北海道拓殖短期大学」設置。同43
年自民党の衆議院議員中曽根康弘がどういう巡り合わせか、のこのこ総長としてやってきて、〝拓大
のシンボル〟「恩賜記念講堂」解体してしまった。同45年大学院博士課程(経済学研究科・商学研
究科)。同47年留学生別科を設置。同52年八王子市に新校舎建設。商学部・政経学部の教養課程
を移転。外国語学部(英米語科・中国語科・スペイン語科)を新設。同53年八王子キャンパスに国
際交流会館完成。同54年カナダに提携校を開設。同56年中国・台湾・スペイン・メキシコに提携
校を開設。同62年工学部(機械システム工学科・電子工学科・情報工学科・工業デザイン学科)新
設。
 平成2年北海道拓殖短期大学を「拓殖大学北海道短期大学」と改称。同3年大学院修士課程(工学
研究科/機械システム工学専攻・電子情報工学専攻)設置。同4年オーストラリアに提携校を開設。
同5年大学院博士課程(工学研究科/機械システム工学専攻・電子情報工学専攻)を設置大学院修士
課程(エ学研究科/工業デザイン学専攻)を設置。同6年イギリスに提携校を開設。同9年大学院博
士課程(工学研究科/工業デザイン学専攻)を設置。大学院修士課程(言語教育研究科/英語教育学
専攻・日本語教育学専攻)を設置。同10年八王子キャンパス内に学生交流会館完成。同11年大学
院博士課程(言語教育研究科/言語教育学専攻)を設置。国際開発研究所・先端工学研究センターを
開設。同12年国際開発学部(国際協力学科・アジア太平洋学科)を設置。拓殖大学北海道短期大学
に「環境農学科」を設置、農業経済科を改組転換し「経営経済科」を設置。創立100周年記念式典
・祝賀会を挙行。同14年商学部貿易学科を国際ビジネス学科、工学部電子工学科を情報エレクトロ
ニクス学科に名称変更。同15年政経学部政治学科を法律政治学科に名称変更。日本語学校を設置。
同16年大学院修士課程(国際協力学研究科/国際開発専攻・安全保障専攻)設置。大学院言語教育
研究科を文京キャンパスに位置変更。同17年八王子キャンパス内の国際開発学部棟を増築。八王子
キャンパス内に第二体育館と体育寮完成。短期大学廃止。同18年大学院国際協力学研究科博士課程
(国際開発専攻・安全保障専攻)設置。
 スクールカラーが紅葉色なのは校地が紅葉の名所だったからで、最近箱根駅伝でもちょくちょく見
かける色だ。戦後池袋で民族主義むき出しで朝鮮高校(チョンコウ)の生徒と国士舘大学(しかん)
の学生がよく喧嘩をしていたが、拓大生はいつも仲裁役だった。ちょっと朝高に贔屓目だったかな。
だから朝高の生徒は拓大生には敬意を表してキチンと挨拶をしていたようだ。・・・とにかく拓大の
ネームバリューは凄く、他大生とは格違いで喧嘩はしなかった。もっとも拓大生に喧嘩を売ったら、
何処に隠れているのか地から湧くように大集団ができ上がるので、誰もそんなことは想像もしなかっ
たのだろう。ただ面白いことに、大学院生は東大出身がほとんどで、教授は大半が東大卒だとか。し
かし国立化の先触れなのか、外務省OBが教授として送り込まれているんだってよ。

 校歌「
右手に文化の」 作詞・宮原民平  作曲・永井建子
  1 右手に文化の炬
(ひ)を掲げ
    扶桑の岸に声上げて
    闇は消えよと呼ぶは誰ぞ
    人は醒めよと呼ぶは誰ぞ
    ああ輝ける雄渾の
    姿ぞ我の精神
(こころ)なる
  2 雲は焔の色に飛ぶ
    南国水は滾
(たぎ)るとも
    春光永久
(とわ)に隔てたる
    北地に氷 閉ざすとも
    仰いで星を見るところ
    拓かで止まじ 我が行手
  3 人種の色と地の境
    我が立つ前に差別なし
    膏雨ひとしく湿
(うるお)さば
    磽确
(こうかく)やがて花咲かん
    使命は崇し青年の
    力溢るゝ海の外


 磽确は「荒地」「不毛の地」のことだ。この校歌の珍しいことは過去を謳ってないことだ。それに
学校名がない。拓殖大学は〝税務大学〟の異称があるほどその方面に強い。国税庁・経済産業省が縄
張りといわれる。意外だろ? 内緒の話だか、台湾協会というのは外務省の外郭団体だ。つまり拓殖
大学とは「外務省大学」でもある訳で、裏国立大学ということだ。口外しないでくれよ。

 
国立化運動

 元気のいい大学で、アジアの後進地域開発に足跡を残したが、それだけに武勇伝も多く、戦時中に
軍部の圧力なんぞなんのその、他大学が軍部に媚びる中、堂々とマルクスの「資本論」を講義してい
たという。軍部も触らぬ神に祟りなしで拓大は避けて通ったらしい。とにかくバンカラで豪胆な学生
が多いので、軍部も沈黙せざるを得なかったのだろう。特務機関(スパイ組織)に人材が多いのも、
軍部が手を出せなかった理由かも知れない。我が父は憲兵で、態度が横柄で、威張り散らしていた陸
軍大佐が答礼をしなかったことと、胸のボタンを外していた服務規程違反を理由に豚箱に放り込んだ
そうだ。後日その大佐は威儀を正して憲兵隊に謝罪に来たっていっていた。特務機関に因縁を付けら
れて出世の道を閉ざされるのを恐れて、また外務省系の大学でもあることだし、軍部は看過したした
のだろうさ。
 拓大は国粋的に偏った大学と間違われるが、國學院や国士舘、皇學館じゃぁあるまいし、同列に並
べて「右翼」だの「国粋主義」だのと評価する向きがあるが、拓大をそのレベル見るのは見当違いだ
よ。校歌に

   人種の色と地の境、我が立つ前に差別無し

 と謳っている。こんな校是を持った大学は、日本は無論、世界中何処を探しても一校としてない。
終戦を迎えても大学に立て籠もり、1年ばかりも米軍に抵抗したのは有名な話だ。銀座辺りへ出向い
ては米兵と諍いを起し、お濠端に連れ出しては濠の中に放り込んでいた。そんな大学だからマッカー
サーの逆鱗に触れ「拓殖」の名乗り停止させられ、昭和24年から29年までは「紅陵大学」を称え
た。敵国にこんな処置をされるのも珍しいことだ。
 また拓大は軍部をも沈黙させるほどの反権力だが、学生運動の嵐が吹きすさんだ昭和40年代、誰
も彼もが流行り病のように左翼的学生運動を至上とする中で、拓殖大学の学生は微動だにしなかった
のは語り草。だからといって反共でも、国粋主義でも、ノンポリでもない。それがバンカラのバンカ
ラたる所以なのだろう

 で、拓大は私立なのだが、早稲田や慶應を始めとする私立大学とは一線を画する。それらは商業ベ
ースの教育機関であるのにし対して、台湾協会という国策ベースの養成機関だ。国立大学には、司法
・経済・農業・工業・鉱業・商業・医学などなど学問の総てをカバーして情報は権力の手にあるが、
ただ1つ欠けているのが「海外学」と呼ばれる範疇だ。それを保持し、専門化しているのが拓大で、
日本の権力、その後ろのアメリカの権力の垂涎の的だ。特に中近東学は世界に類のないものだ。戦前
拓殖大学を国立大学にしようと外務省が策動したが、敗戦でその運動は瓦解した。しかし戦後40~
50年代に再燃してそういう働きかけがあった。拓大はこれを拒絶した。権力の下心が見え見えだか
らだろう。しかしこれは大変なことで、権力も官僚も早稲田や慶應を国立大学にしようとは夢想だに
すまい。とにかく拓殖大学は摩訶不思議な大学だ。世の中の要所要所に拓大がいる。小泉純一郎が拓
大を出ていたらブッシュはイラク攻撃に踏み切らなかったろうとも、安倍晋三が拓大を出ていたら、
あんな目には遇わされていなかったろうともいわれる。鈴木宗男は拓大卒で、鈴木が潰されたのは、
拓大が国立化を拒んだ竹箆返しだそうだ。拓大国立化運動は外務省の肝煎りだ。
 「経済の一橋、政治の拓大」は表ではなく裏側にべったりと張り付いている。拓大は敵に回さぬが
よろしかろう。
 もしかすると「アルカイーダ」「ビン・ラーディン」は拓大なのかもしれないぞ。アメリカが拓大
を目の敵にしている。

 ●横綱白鵬、客員教授
 平成25年6月11日拓大の講座「世界の中の日本」を担当する〝客員教授〟に就任し、区内の拓
大で福田勝幸理事長から委嘱状を受け取った。日本相撲協会は1回限りの講座で許可しており、一般
的な客員教授とは異なる。白鵬は「教授の名に恥じないように一生懸命精進、努力する考えでありま
す」と話した。講座の日程は未定。「教養と品格を備えた国際人」(福田勝幸理事長)と白羽の矢が
立った客員教授としては、講座「世界の中の日本」を担当。来年3月まで数回、教壇に立つ予定だ。
大学と横綱の橋渡し役となった拓大企画アドバイザー出村明弘は「強さだけではない、教養の部分も
(講座に)生かしてもらいたい」という。
 この日、客員教授に就任した拓大を訪問した。午前は区内のキャンパスで、委任状授与式と横綱の
強さを分析する「白鵬研究プロジェクト」の発足会見。午後は八王子キャンパスに移動し、大関時代
の平成19年夏場所の優勝額の贈呈式などを行った。
 拓大は拓大北海道短大と合同で、白鵬の強さに迫る研究プロジェクトを立ち上げた。横綱は同短大
女子バスケットボール部の名誉監督でもあり「大変うれしく思うし、さらに相撲に身が入る」と述べ
た。
 

 
烈士脇光三の碑
 明治37年4月「台湾協会学校」は「台湾協会専門学校」となり、発展しつつあった。そのような
活気あふれる時期に、国の為に役立つことは男子の本懐だった。当時の事情について、幹事の門田正
経(後に幹事長)が後日「急に開戦したことであって、この戦場である支那語の通訳に当たる人が極
めて乏しかった。陸軍省はこれを外国語学校に求め、その他予て清語に通ずる者を求めたけれども、
なお足らなかったのみならず、本校におても時こそ来れ
、直接に国家事業に貢献するのはこの時だと思ったのだ」と説明している。戦争前の緊迫した時代、
台湾総督の児玉源太郎、民政長官の後藤新平らが学校を訪れ、生徒たちに講義(訓話)を行っている。
これらの訓話が、後に戦地に赴く青年たちに多大な影響を与えたであろうことは否めない。
 脇光三は拓殖大学の1期生だ。もちろん当時は拓殖大学ではなく台湾協会学校だった。脇は教育者
として名高い浅岡一の三男として東京で生まれ、脇家に養子に入った。浅岡は福島の二本松藩の出身
で、師範学校や女学校などの教授や校長を務めた。長野師範学校の女子部での教え子が、後に※「東
洋のマタハリ」と称された河原操子であり、
脇が彼女に辞世を託している。

   一朝宣戦 除百年憂 吾党有士 死賛皇献 
   興安西峙 松華東流 侠骨可埋 此山河頭


 なお脇の伝記については、「不二歌道会」参与田中正明が『落つる夕陽よしばらくとまれ/烈士脇
光三伝』を拓殖大学から刊行している。また脇家は彦根藩である事から、戦前には彦根市からも『烈
士脇光三伝』が出されている。田中の郷里長野県は、脇の実父が教育者として多大な足跡を残した地
だ。明治13年に生まれた脇は、実父や養父の転勤に伴い、全国各地に学んだ。杉浦重剛の日本中学
を卒業した後、脇は医師を目指して第二高等学校に進んだ。「大陸熱に憑依かれた」と実父が嘆いて
いた脇は、軍人志望だったが、体格検査の結果諦めざるを得ず、軍医となって大陸を目指した。その
ような時に台湾協会学校が設立され、それを知った脇は、二高を中退、仙台から東京に出てると「台
湾協会学校」に入学した。児玉の講義に感動した脇は明治35年念願であった大陸への雄飛を実現し
た。日露開戦後、ロシア軍背後の交通・通信線を破壊する使命を帯びた特別任務班が編成され、当然
の事のように脇は参加した。この構想は参謀次長時代の児玉によるものだった。脇は、横川省三を班

とする第一班に属し、沖禎介、松崎保一、中山忠熊、田村一三とともに、東清鉄道を爆破するために
支那から満州へ向かった。明治37年月12日鉄橋爆破を目前にして、横川と沖はロシア軍によって
逮捕された。脇らは再集結する際、土民の襲撃により殺されたと伝えられている。彼らの任務は失敗
に終ったが、再度の攻撃を恐れたロシア軍がかなりの勢力を鉄道警備に回さなければならなくなり、
敵の戦力を削ぐという目的は達成する事が出来た。横川らはハルピンで銃殺されたが、その堂々とし
た姿勢は、世界に対して武士道を示すものであった。明治41年東京の護国寺に「報国六烈士碑」が
建立されたのを始め、大正10年にはハルピンに「志士之碑」など国の内外に、彼らを顕彰する碑が
建てられた。昭和6年内に「烈士脇光三碑」が建立された。この碑は文京キャンパスにあったが、現
在は八王子キャンパス管理棟前に移されており、碑の後には、乃木希典の縁と伝えられている水師営
のナツメの種から生まれた木が植えられている。平成16年4月23日、拓殖招魂社春季例祭に合わ
せ碑前において、八王子子安神社の神職の奉仕により、「脇光三先輩百年祭」が厳粛に執り行われた。

 「東洋のマタハリ」と称された河原操子であり] について
 内田さんから、「川島芳子の間違いではないか?」とのご指摘がありました。「東洋のマタハリ=
川島芳子」ということは承知しておりますが、碑文をそのまま転記したものです。また調査したとこ
ろ、河原操子が東洋のマタハリと呼ばれたと記した文献、ブログもありました。操子がそう呼ばれた
ことがあるのか、勘違いした記録なのかは不明です。
 なおマタハリとは、フランスのパリを中心に活躍したマレー系オランダ人の踊り子(ダンサー)、
ストリッパー、Courtesan(仏語:高級売春婦)。第一次世界大戦中にスパイ容疑でフラン
スに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。「マタ・ハリ」はダンサーとしての芸名であり、本
名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ(Margaretha Geertruida Zelle)。世界で最も有名
な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となった。
 


■大学数え歌

  1、一つとせ 人は見かけに寄らぬもの
    ナンパする奴ぁ 拓大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  2、二つとせ二目と見られぬ オカメでも
    窓から顔出す 日大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  3、三つとせ 見れば逆立ちしたくなる
    座布団帽子の 早大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  4、四つとせ 夜の夜中に飛び起きて
    間男する奴ぁ 法大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  5、五つとせ いつも神田で叩き売り
    バイトする奴ぁ 中大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  6、六つとせ ムカムカするよな格好して
    ウインクする奴ぁ 慶大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  7、七つとせ 何にもしないで 卒業して
    世に出て恥かく 明大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね 
  8、八つとせ 破れタオルで 頬かむり
    こえたご担ぐは 農大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  9、九つとせ 功徳あるよな顔をして
    濡れ手で儲ける駒大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  10、十とせ とうとう出ました女子大生
    亭主尻敷く カカア天下 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  11、十一とせ 十字架背負って ケンカする
    キリスト泣かせの 立大生 そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
  終 終りとせ 尾張名古屋は城で持つ
    天下の大学 俺で持つ そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね
 


清水山専教院潅頂寺

 小日向3丁目6番10号にある新義真言宗の豊山派の寺。宝仙寺末。寺延宝九年(1681)良法
法印によって創建されたという。寺伝では無縁仏の菩提を弔うために建立したという。昭和20年愚
かなアメリカ軍の空爆の被害を減殺するため疎開を命じられ解体。本尊は観音寺に預けられた。同4
2年に再建。現在は一見すると3階建てのマンションになっており、2階部分に仏間を設け、本尊の
地蔵菩薩を安置している。本堂正面の寺号額と駐車場脇にある数体の石仏、雲照律師の百万遍の碑の
みが寺であることを示している。
 


■庚申坂

 小日向4丁目1番と春日2丁目9番の間の雁木(階段)坂。坂下に庚申の石碑があったことからこ
の名がある。この坂をキリシタン坂と書いたものがあるが、坂下から地下鉄丸の内線のガードを潜っ
て反対側にあるのがキリシタン坂。尤も薬研坂(下って上がる坂)なので、キリシタン坂でも間違い
ではないが、庚申坂の名があるのだから、庚申坂が正しかろう。

   「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・略・・・この坂
   を切支丹坂というは誤りなり。本名〝庚申坂〟、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所
   図会』
    庚申信仰は庚申の日(60日毎)に人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天
   帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中
   国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの
   向側の坂のことである。
   「・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』

    ぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園)

               文京区教育委員会 昭和60年3月
  


■藤寺 鏡翁山伝明寺

 小日向4丁目3番11号にある曹洞宗の寺。仁山嶺恕和尚(寛永二年=1625寂)が開山、鏡翁
傳明(慶安二年=1649卒)が開基となり寛永元年(1624)に創建。「新撰東京名所図絵」に
よると慶安三年(1650)閏十月二十七日三代将軍徳川家光は、牛込高田辺放鷹御成り(鷹狩)の
時、帰りの道筋この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、「これこそ藤寺なり」と上意があり

「藤寺」と呼ぶようになった。「小石川區史」

   鏡翁山傳明寺。曹洞宗小日向金剛寺末。本尊釋迦牟尼佛である。當寺の開創は寛永元年で
   開山は仁山嶺如和尚(寛永二年二月廿八日寂)、開基は鏡翁傳明和尚(慶安三年二月三日
   寂)である。境内に藤の名木(今の藤は後に植ゑたもの)があつたので、俗に『藤寺』と
   呼び慣らされた。慶安三年将軍家光が高田方面へ鷹狩りの歸途、この寺に立寄り、藤の花
   の見事に咲いたのを見て感嘆し、この稱呼を與へたといひ傳へてゐる。文政時代には境内
   六百四十坪餘あり。現本堂は寺傳に依れば享保年間の建立だといふ。

 とある。

 庚申塔・地蔵尊
 寺門前にある。


■藤坂

 小日向4丁目3番と4番の間、伝明寺前から小石川5丁目に上がる急な坂道。伝明寺の藤に因んで
その名がある。また富士山が眺められたので「富士坂」とも呼ばれる。昔、茗荷谷の沼に河童がいた
と伝えられることから、禿坂(かむろざか)とも呼ばれている。


   藤坂
   「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下る坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰
   江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺である。
   『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将
   軍徳川家光は、牛込高田田辺御放鷹(鷹狩のこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち
   寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤
   寺と呼ぶようになった。昔は、この坂から富士山が望まれたので、富士坂ともいわれた。
   『続江戸砂子』い、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。
   また、ここの伝明寺には銘木の藤あり。一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわ
   れた。
 
    藤寺のみさかをゆけば清水谷 清水ながれて蕗の苔もゆ(金子薫園)

               文京区教育委員会 平成11年3月

 伊勢屋の十一面観音
 藤坂の途中、伝明寺の墓地の塀の端が切れたところの叢にある。地下鉄丸ノ内線工事に伴い、近燐
路傍の仏像を合祀したもの。レプリカという道祖神、庚申塔、地蔵などが鎮座まします。
 


妙峯山徳雲寺

 小日向4丁目4番1号にある臨済宗円覚寺派の寺。寛永七年(1630)一翁存碩觜禅師が開山、
雲外万諸和尚が開基となり、「解脱寺」と称して創建、その後白鴎山江東寺、妙峯山徳雲寺へと改号
したという。当寺には、小石川七福神の弁財天が安置されている。
 


■釈迦坂

 小日向4丁目4番と8番にある、崖に沿ってくねくねと曲がる坂道。徳雲寺に石釈迦像があったこ
とにより坂の名となった。丸の内線から見える。

   釈迦坂
   春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
   『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺
   (約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここ
   より見ゆるに因り、坂名とするなり」
   徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永七年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝
   に関する記事がある。境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)
   五代将軍綱吉が、この辺りへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎
   木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て
   大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失っ
   たことは惜しいことである。徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石
   川七福神の一寺となっている。
                文京区教育委員会 平成14年
 


■茗荷谷
 拓大といえば茗荷谷だが、地下鉄丸の内線に「茗荷谷駅」がある。拓大の東門の方に下る谷をいっ
たが、正しくは「清水谷」だ。今は傾斜地が残るのみで往時の面影は何もない。字面から茗荷が自生
していたのだろうと想像するのが一般的だ、各地の茗荷谷は茗荷に関わるから無理もないが、この地
の「みょうが」は、実は「冥加」で、「冥加稲荷」から来ているのだ。昔この付近(小石川4~5丁
目の春日通りの辺り)に御箪笥町があり、鉄砲方の旗本・御家人が集住し、仕事は鉄砲を撃って命中
させることだった。しかし太平の世では実力の発揮も出来なければ、腕の見せようもない。それで技
術向上のためと、実力維持のために競技会が開かれ、命中率がよいと将軍の覚えめでたく、ご褒美な
ど頂戴することがあり、それは名誉なことであり、励みにもなったので、谷上(今の駅付近)にあっ
た稲荷社に願掛けして出発していった。そんなとき大願が成就したことがあったのだろう。なかなか
霊験あらたかだったところから評判を呼び、いつしか稲荷を「冥加稲荷」と呼んだ。その冥加稲荷が
ある谷なので「冥加谷」と俗称され、明治になって徳川色を嫌う明治政府によって、韻の同じの「茗
荷」に書き換えられてしまった。
 冥加稲荷と呼ばれた稲荷社が何処に行ったのか記録はない。明治維新後に撤去されたのだが、行方
知れずだ。駒込の吉祥寺内に「茗荷大権現・聖徳稲荷」という出自不明の神社がある。
 


■茗荷谷駅

 小日向4丁目6番にある東京メトロ丸の内線の停車場。昭和29年1月20日丸ノ内線池袋~御茶
ノ水間開業と同時に設けられた。この区間は、丸ノ内線で最初の開業区間だ。ホームは相対式2面2
線構造で地下1階にある。地下1階といっても半地下構造であるため、ホームの荻窪方は地上にはみ
出している。改札階とホームを結ぶエレベーターは設置済み。改札口は2ヶ所で、いずれも地上1階
にある。出口は1~3の3ヶ所茗荷谷駅は駅ビルを併設しており、ジョナサンや日本海庄やなどの飲
食店や予備校などが入居している。茗荷谷~後楽園間には丸ノ内線の車両基地の1つ小石川検車区が
ある。そのため一部には茗荷谷駅を始発・終着とする列車がある。

 さすが文京区だけあって茗荷谷駅を中心とする学校は拓大だけではなく、御茶ノ水女子大学・(同
付属女子高・中・小・幼)、筑波大学(学校教育部・付属高・中)、跡見学園(短大・高・中)、都
立竹早高、貞静学園(高・中)、第一中、茗台中、窪町小、学芸大付属高、中・小などなどが犇(ひ
しめ)いている。墨田区文花よりは文教地区だ。
 谷の途中に縛られ地蔵の林泉寺がある。
 


青龍山林泉寺

 小日向4丁目7番2号にある曹洞宗の寺。慶長七年(1602)伊藤半兵衛長光を開基、通山宗徹
を開山として開創された。「小石川區史」に、

   林泉寺
   青龍山林泉寺。曹洞宗、巣鴨町白泉寺末。本尊釋迦牟尼佛。當寺の起源は明らかでないが
   元和七年六月四日が開山通山宗徹和尚の歿年であるから、恐らく慶長、元和頃の開創であ
   ろう。寺傳に依れば慶長七年開創といふ。開基は伊藤半兵衛長光、初めは普蔵寺と云つた
   が、寛文三年開基歿後林泉寺に改めたといひ傳へられてゐる。文政の頃は境内拝領地千六
   百八十五坪、他に六十一坪の附屬地があつた。現在の本堂は天保四年の建立で、境内に俗
   稱『縛られ地蔵』がある。又毎金曜日参禪會が行はれてゐる。


 とある。

 
縛られ地蔵
 入り口の階段を上がった右手にある。地藏尊は、長光が両親の供養のために寄進したものと考えら
れている。盗難や失せ物があると、地藏尊に縄をかけ、願いがかなうと縄をほどく。江戸時代から庶
民の信仰を集めている。ここの縛られ地蔵の由来は判っていない。大岡越前の例の話をこじつけてい
るが、あれは江戸川区の縛られ地蔵の話だ。もしかすると参詣者を増やそうと、大岡越前の話を拝借し
て、縛られ地蔵に仕立て上げたのかも?

   縛られ地蔵                       小日向4‐7‐2 林泉寺
   人々が願いをかけるとき地蔵尊をしばり、願が叶うと縄をほどくのでしばりじぞうともい
   われた。
   「むかし呉服屋の手代が地蔵さまの前で休み居眠りしているうちに反物を盗まれてしまっ
   た。奉行は石地蔵が怪しいといって地蔵を荒縄で縛り奉行所に運んだので、物見高い見物
   人が一緒に奉行所内に入ってしまった。許しもなく入った人々に罰として3日以内に反物
   1反を持参させた。その中に盗品があり犯人を検挙した」この大岡政談の話しの地蔵尊は
   現在の葛飾区東水元(南蔵院)にあるが「縛られ地蔵」として有名になったのもこの頃か
   らと思われる。
                ━郷土愛をはぐくむ文化財━
              文京区教育委員会 昭和60年3月

 座禅会
 昭和59年2月22日に江田和雄老師によって創設され、参禅者を迎え入れてきた。先代老師遷化
後、現住職江田真人による指導で多くの会員が坐禅辨道に励んでおり、
外国人が多く参加している。


■深光寺

 小日向4丁目9番5号にある浄土宗の寺。急坂の参道を登ると右に鐘楼、正面に鉄筋コンクリート
造りの本堂。左は墓所。右は庫裏。小石川七福神の恵比寿安置。滝沢馬琴の墓がある。

 
滝沢馬琴の墓
 深光寺の墓地にある。『南総里見八犬伝』は、馬琴が28年の歳月を費やして書き上げた江戸文学
の記念碑ともいえる作品だ。明治になってから、坪内逍遥によって、勧善懲悪小説のレッテルを貼ら
れ、馬琴の名声は地に落ちたものの、江戸末期に馬琴ほど愛読された作家はいない。ベストセラー作
家であったことは間違いないし、扇子代、稀代など、今でいう原稿料をもらった作家第一号だった。
また彼の残した日記や作品の数々は、天気、物価、流行生活一般がこまごまと描写されており、江戸
末期の貴重な資料とされている。馬琴は武士の子として生まれた。名は興邦、のち解(とくる)と改
め、通称は清右衛門・倉蔵といった。号は曲亭馬琴・著作堂主人・蓑笠漁隠など。9歳で父を失い、
前半生は茨の道を歩んだ。14歳の冬家を飛び出して放浪生活をし、医者、儒学者、狂歌師、俳諧師
になろうと志を持ったが、いずれもものにならなかった。幼いの頃より神童の名をほしいままにした
馬琴は、洒落本で有名な山東京伝の弟子になった時から、作家修行の第一歩を踏んだ。40歳頃から
作家としての名が上がり、8年後に名作長編のスタートを切った。晩年は両眼失明、嘉永元年(18
48)長くて苦しい81年の生涯を終えた。墓石には戒名が2行に刻んである。右が馬琴の戒名「著
作堂隠誉蓑笠居士」で、左のは妻百のものだ。

   世の中のやくを逃れてもとのままかへすはあめと土の人形

 
切支丹灯籠
 境内にある。 


■蛙坂

 茗荷谷を下り地下鉄ガードの手前を右に上がっていく坂道だ。坂の東側の湿地と、向かい側の池に
蛙が沢山いて、むかし双方の蛙が坂の途中で合戦をしたので、土地の人が蛙坂と呼んだという。繁殖
期の交尾がまるで喧嘩をしているように見えたのだろう。

   蛙坂
   「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」
   (改撰江戸志) 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、ま
   た向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂
   で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
   なお七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹
   坂に通じている。
               文京区教育委員会 平成12年3月
 

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